1000年前から明治初期まで、全国で活躍した陰陽師。しかし明治政府が突如、彼らを失業に追いやった…陰陽師の転職先は?
陰陽師(おんみょうじ)と聞けば、安倍晴明(あべのせいめい)、平安時代のイメージが強い。貴族や天皇が呪いをかけあう、大昔のファンタジーだと筆者は思い込んでいた。
しかし実は陰陽師、明治初期まで日本全国で活躍。毎年、暦(こよみ)を作り、日本列島各地の人びとに販売していた。
ところが1000年以上活躍した陰陽師が突如消えた。なぜか? そんな歴史を調べに、国立歴史民俗博物館(以下、レキハク)「陰陽師とは何者か」展に行ってみた。
尚、聞き手はオフィスの給湯室で抹茶をたてる給湯流茶道(きゅうとうりゅうさどう)。「給湯流」と表記させていただく。
16世紀、愛知と栃木で同じマニュアルが使われるほど、陰陽道は全国に広がった
「これ、愛知と栃木で16世紀、ほぼ同じ陰陽道の呪法をつかっていたことがわかる資料です。すごいでしょう?」
熱く語るのは、「陰陽師とは何者か」展の展示代表を務めるレキハクの研究者、小池淳一さんだ。
給湯流茶道(以下、給湯流)「同じ、とは?」
小池淳一(以下、小池)「こちらは、栃木県で出土した16世紀頃のものです。陰陽道のまじないの一部だと考えられます。」
▲呪符かわらけ/16世紀頃/栃木県立博物館所蔵
小池「よく見てください。紙に描かれた図様とそっくりです!紙のほうは愛知県で16世紀に書かれた陰陽道マニュアルです。」
▲盤法まじない書(行法救呪)/大永5年(1525)写/豊根村教育委員会所蔵
給湯流「16世紀、愛知と栃木に同じ陰陽道マニュアルが流布していた、ということですね。全国各地で陰陽道のまじないが用いられていた!」
▲平安時代、陰陽師の日記を現代語にしたタッチパネルを操作する小池さん
平安時代、陰陽師は貴族社会で活躍した。「藤原道長さまが乗った牛車の車輪が壊れた。これは誰かの呪いか?」など、貴族や皇族のまわりでちょっとした事件があれば陰陽師が呼び出され、占いをしたという。
やがて、武家も陰陽道を気にし始めた。あちこちで占いの需要が高まり、全国で陰陽師が活躍するようになった。
江戸時代、陰陽師が売った暦(こよみ)。需要がありすぎて、たびたびモメごとになった?
小池「陰陽師は占いをしただけではありません。天体観測を行い、暦を作りました。さらに印刷して全国津々浦々、販売したのですよ。(※1)」
▲渾天儀/国立歴史民俗博物館蔵/江戸時代
これは江戸時代、星の位置や高度を観測するための道具だ。中国が1270年代からイスラム天文学や数学も取り入れた観測技術。それを日本は取り入れた。さらに徳川吉宗の時代になると西洋の時計、世界地図、地球儀なども輸入。日本もかなり高度な技術で天体観測を行い、暦を作っていたのだ。
▲明和五年南都暦/明和4年(1767)/国立歴史民俗博物館蔵/吉川家文書
上の空いたスペースに、彗星が出現したというメモが残されている! ぜひ実物でご覧ください。
小池「江戸時代には、全国の村にも暦が販売されました。このような家は多数あり、『うちは毎年、吉川家から暦を買う。他の家はお断り。』などと決まっていたようです。」
給湯流「ガチガチの訪問販売だ(笑)。消費者と専売契約をして、何十年と売り続ける! しかも全国で展開していたと。すごい売り上げがあったでしょう、一大産業ですね。」
小池「決められた頒布先を超えて、勝手に暦を売る人もいたようです。そんなルール違反が問題となった記録も残っています。」
給湯流「それだけ需要があったということですね。」
小池「安倍晴明を祖とする土御門家(つちみかどけ)などが『うちの許可をとらずに、勝手に暦を売るんじゃないよ!』などと訴えたのでしょう。」
※1:きっちり分けられるわけではないが基本的には、陰陽師は暦をつくり、暦を全国で売るのは「暦師」と呼ばれる人だった。陰陽師と暦師、両方を行った家もあるし、片方のみの家もあった。今回の記事では、表記を「陰陽師」で統一している。
夜に月を見れば誰もが今日が何月何日か、わかった江戸時代
給湯流「陰陽師が作っていた旧暦は、今のカレンダーとは何が違っていたのですか?」
小池「月の満ち欠けで1か月を作っていました。何も見えない新月から半月、満月で15日、次の新月の前日で1か月が終わる。江戸時代は、夜に月を見れば今日が何月何日か、だいたいわかっていたのでしょう。」
▲烏帽子・装束/江戸時代カ/国立歴史民俗博物館蔵/吉川家文書
給湯流「現代人はスマホで『今日、何日だっけ?』などと確認しています。しかし江戸時代の人は夜空を見上げれば日付がわかった。なんだかロマンがありますねえ!」
旧暦では『6月1日はアジサイをぶら下げて厄除けする』など、いろいろな風習も暦に載っていたそうだ。残念ながら今の新暦6月1日ではアジサイが咲かないため、この習慣は廃れたという。
明治以降、一気に消えた風習がたくさんあるようだ。無念!
▲(中尾家版木)文化八辛未略歴 柱暦/天保13年(1842)/個人蔵/奈良市史料保存館寄託
今、我々が使う太陽暦は一か月がたいてい30か31日間。そして地球が太陽を回る365日に合わず、うるう年を設けることはご存じだろう。陰陽師が暦をつくった「太陰太陽暦(旧暦)」。月の満ち欠けでひと月をまとめ、29.5日になる。今の30か31日間にくらべ、1か月の日数がさらに少ないわけだ。
このように旧暦だと太陽周期365日とのズレが大きいので、「うるう年は2月29日があります」程度の調整では間に合わない。旧暦では1年を13月にしてみたり、29と30日間の月を多様に組み合わせたりと毎年、ころころ配列が変わった。
この旧暦の仕組みが、明治時代に陰陽師の「悲劇」を生んでいく…。(続きをお読みください!↓)
明治5年の秋。数週間後から太陽暦を採用すると明治政府が急に発表! 福沢諭吉の暦の本がバカ売れ
陰陽師が作っていた暦。13月がある年と無い年がころころ変わる状態だった。しかし、太陽暦を使う欧米諸国は、うるう年はあれど、毎年12月で終わるカレンダーで動いていた。近代化を進める日本は、西洋諸国とカレンダーをそろえる必要があったのだ。
▲新旧明治六年暦/(旧暦)国立歴史民俗博物館蔵(吉川家文書)/(新暦)個人蔵
政府が急に太陽暦を使い始めた年の新旧の暦。様々な情報が書かれている右のほうが、旧暦バージョンだ。
そして「悲劇」がやってきた! 明治5年11月9日。明治政府は突如「これから西洋の太陽暦を使う。12月3日を、明治6年1月1日にするぞ。」と発表。11月、既に来年の暦が全国で販売された中、突然のできごと。当時、太陽暦に変更したのはアジアで唯一、日本だけだったという。
ちなみに太陽暦の導入が発表された日、福沢諭吉は風邪で寝込んでいたらしい。しかし、発表を聞いた諭吉は起き上がる。太陽暦が合理的であると勧める本を、6時間であっという間に執筆したという。そして爆発的ベストセラーになった。諭吉おそるべし・・・。
そして暦に関わってきた人は、転職活動に翻弄! 長く奈良で活躍してきた吉川家は、文房具商に転じた。全くの異業種で醬油販売に転じた家もあるという。
▲諸神神名柱/寛政7年(1795)/筮竹・筮竹立て・筮竹入れ(江戸時代カ)/2つとも国立歴史民俗博物館蔵/吉川家文書
小池「1000年以上続いた陰陽師の仕事が、明治のはじめに急に姿を消して150年以上たってしまいました。月や星、季節の移り変わりを法則化し、未来を見通そうとした陰陽師たちがいたことを思い出していただけたらと思います。」
1000年を超え続いてきた仕事が、この150年で消え去った……歴史のダイナミックな動きも見える展覧会。ぜひ足をお運びください。
アイキャッチ画像:平産之符/江戸時代/国立歴史民俗博物館蔵/吉川家文書
取材・文/給湯流茶道
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企画展示「陰陽師とは何者か-うらない、まじない、こよみをつくる-」
開催期間 2023年10月3日(火)~12月10日(日)
会場 国立歴史民俗博物館 企画展示室A・B
https://www.rekihaku.ac.jp//exhibitions/project/index.html
陰陽師とはどのような存在だったのでしょうか。この展示では、あまり知られていない陰陽道の歴史とそこから生み出されてきた文化をさまざまな角度からとりあげて考えてみます。古代において成立した陰陽道は中世から近世へと数百年にわたり、その役割を広げながら、時代とともに多様に展開していきました。その姿を都状(とじょう)や呪符など具体的な史資料をもとに、明らかにしていきます。
安倍晴明は平安時代の実在した陰陽師ですが、陰陽道の浸透とともに、伝奇的なイメージが付け加わっていきます。その姿を追うことで陰陽道の性質をとらえることも試みます。さらに陰陽師たちが担った暦について、その製作や形式、移り変わりの様子を見つめることによって、人びとが陰陽道に求めたものが見えてくるでしょう。
なお、この展示は科学研究費基盤研究(C)「古代~近代陰陽道史料群の歴史的変遷と相互関係の解明」の成果の一部です。
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♦特別展の詳細はこちら↓
https://cumagus.jp/articles/Z_0pXVQSdaopChoLXtduU