世界の記憶「上野三碑(こうずけさんぴ)」めぐりと上州ブランド二題③
目次
2 藤原不比等の名も刻まれている和銅四年(711)銘「多胡碑」と多胡碑記念館へ
3 上州ブランドその二:剣術の神髄を今に伝える馬庭念流道場
山上碑に向かう前に馬庭念流道場に立ち寄ります。
馬庭駅より約400m北西、徒歩約5分、念流宗家当主樋口家の邸内に道場と資料館はあります。
馬庭念流道場遠景
「馬庭念流道場」説明板と群馬県史跡指定の石碑
馬庭念流といえば、司馬遼太郎の小説『北斗の人』で北辰一刀流の開祖千葉周作の前に立ちはだかった赤堀村の本間仙五郎(後に馬庭念流より派生して本間念流を唱える)を思い出します。
「……仙五郎の気合が道場いっぱいにひびきわたったときは周作の刀は飛び、はるか道場の東すみに落ちて行き、当の周作は右膝をついて板敷に崩れ、その頭は仙五郎の木刀でかるくおさえられていた。……(なぜ負けたか)周作にはわからぬ。」(司馬遼太郎「馬庭念流」『北斗の人』講談社文庫、1972年)
後に何度かテレビドラマ化されましたが、半世紀以上前に(白黒テレビで)放映された、正眼に構える周作(加藤剛)と地擦りに構える仙五郎(苦み走った顔の役者さんのお名前を失念)の迫真の場面を未だに記憶しています。
もちろん、あくまで小説であり、本間は延享元年(1744年)生まれ、千葉は寛政5年ないし6年(1793、1794年)生まれ、じつに50の年齢差ですから、両者に尋常の勝負が実際にあったとは思えませんが、仙五郎の次代・次々代には両派の門人同士の軋轢があったようで、江戸に進出した念流道場と、日本橋(後に神田に移転)に玄武館を構える北辰一刀流道場との間に争いがあり、余波は念流のお膝元に近い伊香保(伊香保神社掲額事件)にも及んだようです。
第二次大戦後に『堕落論』で一世を風靡した坂口安吾が念流の構えを評して「「無構え」というヘッピリ腰が面白い。しかしよくよく見ると恐しい構えである。百メートル走者の疾走中の瞬間写真のような体形が基本になっている。空中を走る姿を地上に置いたのが無構えで、したがって、いきなり飛びだすに一番都合のよい体形だ。……完全に実戦から生れて育ったままの剣法で、お体裁というものが全く見られない」(「馬庭念流のこと」『坂口安吾全集』14、筑摩書房、1999年)と書いています。
北辰一刀流(中西派一刀流)とはかなり趣を異にした朴訥な剣術の姿が目に浮かびます。さすがは若き日に短距離走や高跳びに明け暮れた安吾ならではの面白い念流評ですね。
念流の教義は「剣は身を守り、人を助けるために使うもの」、後手必勝、徹底的な守りを理念としており、武士だけでなく、ひろく農民・町民も門人として受け入れてきたことが「民間剣流」「土着憲法」といわれてきた所以とのこと(念流宗家公式サイトより)
道場では令和の今も日曜日ごとに稽古が行われており(午後2時頃~7時頃)、東京から熱心に通われる門人もいるとか。「尚伝統」(安吾言)の風、未だ健在といったところでしょうか。
稽古の見学は、記帳の上自由とのことでしたが、残念ながらあと2碑の見学を残していたため、道場内の凛としたたたずまいをまぶたに焼き付け、稽古風景と資料館の展示を見ることなく山上碑に向かう。
*次頁 4 日本最古の辛己(巳)年(681年)銘山上碑と山上古墳